発行冊子の紹介


第73号 2013年 9月 発行

   目次  
【73巻頭言】                    尾関 章  
姫路市長越遺跡出土の壺形土器の絵画について      野田昌夫
厩戸大王論                      中村 修
尾張氏系譜への一試論                 尾関 章 
会員広場【小休止】
斯麻宿禰と草香部氏                  渡部正路
前号(72号)「小休止」欄についての若干の釈明    山中光一
アンデス通信㉖                    市木尚利
書評 和田晴吾著『私の出会った生きものたち』     河野宏文
「明石原人」と直良信夫再考(補)           下司和男
中村修氏の拙著批判について              安本美典
悲濤の人・福本正夫(2)               中村 修
   
【巻頭言】古代史における「定説」について       尾関 章
 管見の限りだが、近年の学会は一部を除き、ほぼ、尾張氏濃尾平野発祥論ばかりである。中村修氏は、「葛城高尾張説は問題にならない」とされ、「・・・尾張氏系図の前半部分(10世孫まで)は後世の架空であることが定説化している」から注記されている(『海民と古代国家形成論』287・295頁。
 私は前稿でこれを敢えて「問題にした」のだが、思うに、6世紀以前の列島古代史の文字の一次資料はきわめて稀少である。にもかかわらず、その時代の氏族名と係わる見解が、「定説化しているから、問題にならない」として退けられてしまうと、そこで思考停止になってしまいかねない。
 また中村氏は、「研究者にとっては、定説とかけ離れた他人の著作を添削するゆとりもないし、それをしたところで何の業績にも成らない」とも書かれている(本誌72号27頁)。これにより、ほとんどの学者の、拙稿へのノーコメントの訳がよく理解できたが、しかし、古代史の定説とはいったい奈辺にあるのだろうか。私は、定説は踏まえるべきだが、前提とされるべきものではなく、前提とされるべきは論理整合性だと考える。整合性ある資料批判、相互批評こそが肝要であり、それにより定説が覆ることもあろうし、自説が比定されても、理路が通り納得できるものなら、むしろそのような批判こそ希求する。