発行冊子の紹介


第38号 2004年12月20日発行

    目次
 【38巻頭言】
仮説とは                      中村  修    
戦後古代史学における「天皇」認識への疑問      半沢 英一    
いなさとり・あしひキ・ももしキの意味        坂田  隆    
 -動詞活用の貴人形-
袁紹に懸けた鏡師の運命               白井 良彦    
【小休止】会員ひろば
「南紀」と「愛宕」について             内山  汎    
岸和田市・濱田青陵賞受賞記念シンポジウムの感想   河野 宏文    
ローマ古代遺跡の旅                 中井かをり    
「漢委奴国王」金印の読み方について         山口 順久    
曹奐はなぜ「陳留王」なのか             下司 和夫    
大和三山の聖なる三角形               大谷 幸市    
来信・編集後記                     
巻頭言仮説とは                   中村  修

最近、私の著書『乙訓の原像』の読後感想を聞いて、文系出身者と理系出身者の仮説に 対する意識の違いに気がついた。それは論文の中での「以上のことに大過がないとすれ ば」「ということを仮定すれば」「もしそうだとすれば」などの用語の使い方に対する意識の違いである。 『乙訓の原像』では、兄国=葛野郡などの通説の誤りを主張するのに、それを直接証明し にくいので、通説の前提になっている<オトクニ=弟の国>という命題(私は間違っている と思っているのだが)を一旦仮定して、その上でそもそも通説の結論は導かれない、とい う事を証明する方法を採用した。高校数学で習った背理法を思い出してほしい。 ところが、この手法に対して、多くの理系出身者が「まるで推理小説を読んでいるように わくわくした」と感想を寄せてくれたのに対して、ある文系出身者は「《以上のことに大過 がないとすれば》とか《もしそうだとすれば》などというのは本人が正しいと思っているから 使うのであって、本人がそう思っていないことを仮定するというのは通常しないことだよ。」 と感想を述べてくれた。私はこれを仮説にたいする文系と理系の意識の違いのように感じ た。もちろん例外のあることは承知している。